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原城跡発掘情報

最終更新日:

 

原城本丸大手門跡

◎大量の瓦・陶磁器・人骨とともに本丸大手門跡の発見(平成17年3月31日)

 平成16年度の発掘調査において、本丸の最北部に位置し登城用道路として利用されていた道路の下から、巨大な門の礎石が8個・水路・階段を検出した。門跡は破却され石垣に使用した石材等によって埋め込まれた状態で検出し、大量の瓦・陶磁器・人骨なども出土した。今回検出した礎石はその配列から門であることがわかり、本丸正面入口の石垣間に東西約12m、南北約9mの空間内に、桁行(けたゆき)が南北に約8m、梁行(はりゆき)が東西に約4mの長方形平面で、ほぼ2m間隔の格子にのる形で主要な礎石(そせき)が配置されている1間が6尺5寸(1m97cm)の京間を基準とする桁行4間、梁行2間の建物で、枡形(ますがた)を構成する石垣の間におさまる形となり、石垣と接して建てられていた建物である。礎石の位置から、正面4間のうち中央2間には扉が入り、両脇各1間のいずれかにも扉が入っていた可能性がある。階段は最初の1段目が僅かに残り、あとの段は破壊されていた。水路は、幅約35cmで底には平瓦が傾斜を付けるため階段状に敷き詰めてある。これは、近世初頭の城郭での完存例は極めて少ない。

 今回検出した本丸大手門は、本丸の正面入口に位置する桁行4間、梁行2間の建物である。6尺5寸を柱間真々1間とする京間の寸法体系である。当時としては先進地帯であった近畿地方の建築技術の可能性が高く、原城も近畿地方の建築技術者が建設に関与していた可能性を示すものである。建物は石垣と一体となって機能を発揮したはずで、外観も石垣と一体となって本丸の正面入口に位置していることから、大手門と考えられる。単層の可能性もあるが、大手門であることから外観が重視されていたはずであり、重層(2階建て)であった可能性が高い。(隣接する石垣の高さが不明のため、構造的には石垣との関係も明確ではない。建物は重層で上層部が石垣と一体となった渡り櫓となる櫓門形式であった可能性もある)

 その位置と高さから見て、外観は周囲のみならず、遠く沖を航行する船からも見えたはずであり、そのような遠望を意識した豪華な外観であった可能性があり、有馬氏の権力を再確認するものである。また、この門は島原の乱で一揆軍が籠城した時にも存在した可能性がある。

原城跡の竪穴建物跡群

◎原城の乱一揆軍籠城の建物跡発見(平成14年8月20日)

 平成13年度の原城跡発掘調査において、本丸跡西側の、破壊され埋め込まれていた石垣の前面広場部分から竪穴建物跡群を検出した。床面は焼けており、中からは多くの陶磁器や瓦、人骨などが出土した。今回検出した竪穴建物跡群は、一辺が約2m~3mを測る方形の竪穴建物跡で、その建物跡が石垣に沿って南北方向に9区画連なっていた。石垣側には幅約1mの通路と思われる空間が石垣に沿ってあり、西側は畑による耕作などで削平されている。竪穴建物は、島原の乱の時に立て籠もった一揆軍が使用した、地面を掘り込んだ半地下式の小屋である。竪穴建物群の検出は、文献や絵画資料で断片的に知られていた一揆勢の籠城の実態の一端を明確にする画期的な成果であった。竪穴建物跡群には規格性があり、家族単位でしかも同一集落を基本に使用したと思われる。発見した竪穴建物は密集しているが、通路を設定するなど計画性の高さを示し、整然と籠城していたことがわかった。さらに冬場の籠城にもかかわらず竪穴建物では、個別に炉やカマドといった暖房や煮炊きにかかわる遺物や遺構の痕跡が見つかっていない。それらのことから、籠城中に失火で火災を起こさないようにした大名軍勢並みの軍規の存在を物語るものといえる。この点からも一揆勢は寒さに耐えて、高い規律を守ったことが明らかになった。また、個別の炉やカマドをもたなかったことは、籠城中の食事が竪穴建物ごとの個別での調理だったのではなく、食料を集中管理して調理し、配給していたことが推測される。 以上、一揆勢の原城への籠城はたいへん組織的であり、従来の一揆勢のイメージに対して根本的な再検討を迫る発掘成果である。こうした竪穴建物は原城内の広い範囲にあったことが予測され、今後の調査の進展によって、階層差など、より詳しい一揆勢の実像が解明されるだろう。

花十字紋瓦出土

◎原城跡から花十字紋瓦が出土(平成12年12月23日)

- キリシタン大名の城郭からは全国初 -

 島原の乱で知られる国指定史跡「原城跡」で、本丸の北側にある虎口(出入口)空間帯の最初の門である枡形門跡内から、花十字紋瓦片が出土した。
 今回出土した花十字紋瓦片は、軒丸瓦と呼ばれる瓦の破片で、瓦当面に花十字紋の模様を有するものである。瓦片は、瓦当面全体の約4分の1程度の瓦片で、丸瓦部分は欠損し瓦当面のみであるが、2本の花模様と2個の連珠が確認できる。

 花十字紋瓦が出土した遺跡は、県内では長崎市内の万才町・興善町・栄町・勝山町遺跡などから13点出土しているが、16世紀末キリシタン文化の中心地であった有馬の地では始めての出土であり、またキリシタン大名の城郭からの出土は全国でも初めてである。

 花十字紋瓦は、1580年(天正8)のセミナリヨの設立から1613年(慶長18)のキリシタン禁教令が出されるまでの間、長崎市では万才町遺跡のミゼリコルディア(福祉事業団)、勝山町遺跡のドミンゴ協会などキリスト教関係施設の屋根瓦に使用されていた。

 島原半島におけるキリシタン関係施設は島原半島南部において、セミナリヨ・コレジヨなどの施設があったが建物跡など、今だに検出されていない。今回原城での出土は、キリシタン大名である有馬晴信が築城した城からの出土であり、宣教師の1604年度日本準管区年報によれば、晴信の新城が完成しキリスト教による祝福を受けたことが書かれている。この瓦は、この施設で使用された可能性をもっており原城にキリシタンを象徴するような施設があったことが推定される。

国内最大級の虎口遺構

柱の礎石
虎口階段部分
国内で最大級の虎口遺構確認(平成12年1月20日)

- 通路には玉砂利や柱の礎石も確認 -

 島原の乱で知られる国指定史跡「原城跡」で国内最大級の虎口遺構が確認された。 今回確認された本丸の虎口は、原城本丸の正面玄関に相当する虎口遺構であり、巨大な「虎口(城の主要な入り口)」空間(南北90m東西80m)の存在を立証した遺構である。虎口は、従来漠然と理解されてきた本丸のメインとなる入り口であったが、当初の予想を越えるような規模であり、近世初頭の城跡の調査で、同種の遺構の検出例としては全国的にみても最大級の虎口空間である。

 近世当初までの城跡としては、国内最大級とされていた豊臣 秀吉が朝鮮出兵のおり築城した名護屋城(佐賀県鎮西町)より規模が大きく複雑で、非常に戦闘的な構造となっており、太平に向かいつつあった時代になぜ、そのような構造が必要だったのか今後の課題だそうです。また、今回の虎口跡には城門があったと思われる柱の礎石や通路部分には、玉砂利が敷かれていたことも確認された。

 

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