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市の歴史

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 ■市の沿革

 本市が含まれる島原半島の歴史は古く、10世紀頃には「高来縣」と呼ばれていましたが、さらにさかのぼると、8世紀頃に書かれた「肥前風土記」にも既に島原半島が「高来郡」と記されています。

 日本に鉄砲が伝来した頃の室町時代には、有馬氏が肥前国(現在の長崎・佐賀県)の大半を領有し、21万石、兵馬2万の戦国大名に成長するなど、肥前国の覇権を握っていた時期もありました。

 幕藩時代は島原藩となっていましたが、明治維新の廃藩置県に伴い1871年(明治4年)に島原県、同年の府県廃合により長崎県に合併され長崎県高来郡となりました。その後1878年(明治11年)の郡区村編成法により高来郡は南北に分かれ、本市が含まれる島原半島は南高来郡となりました。

 明治22年の町村制施行時には8町はそれぞれ村となっていましたが、有家町のみ東有家村と堂崎村に分かれていました。昭和に入り各村とも町制へと移行し、東有家村も町制移行時に有家町となった後堂崎村と合併し8町となり、平成18年3月31日に深江町・布津町・有家町・西有家町・北有馬町・南有馬町・口之津町・加津佐町の8町が対等合併し南島原市となりました。

沿革

 ■キリシタンの歴史と「島原・天草一揆」の地

 8町の歴史を語る上で、その根幹となるのがキリシタンにまつわる史実です。8町には「島原・天草一揆」終結の地として知られる原城跡をはじめ、セミナリヨ跡やキリシタン墓碑など数多くの史跡が残されています。

 1563年にポルトガル人のアルメイダ修道士が口之津で布教活動を始めてから、キリスト教は島原半島全体に広がり、領主の有馬義直がキリシタンに改宗すると領民も皆これにならいました。また、前年の1562年には口之津を貿易港として開港、1567年にはポルトガル船も入港しています。

 その後キリシタン文化は様々な面でこの地に根付き、1580年には西洋教育の原点といえる中等教育機関のセミナリヨや高等教育機関のコレジヨの設置によりイエズス会の日本教育の中心地となり、さらに、病院、慈善院の開設、キリシタン版の活字本印刷などがもたらされたほか、口ノ津港での朱印船貿易、天正遣欧少年使節団の派遣なども行われました。

 ヨーロッパの最先端の文化と触れ合ったこの地域は、当時の日本における国際交流の最先進地を形成していました。

 しかし、幕府のキリシタン弾圧が進むにつれ、有馬氏の後に新領主となった松倉氏による領民弾圧や過酷な課税が一段と強まり、さらに一帯の大飢饉が拍車をかけ、1637年10月、島原・天草地方の農民が蜂起し、天草四郎時貞を総大将として「島原・天草一揆」が起こりました。

 「島原・天草一揆」においては、総勢3万7千の一揆軍が原城に篭城して約3ヶ月にわたって幕府軍を相手に壮絶な戦いを繰り広げ、1638年2月、12万余にも上る幕府軍の総攻撃によって領民らはほぼ全滅し終焉を迎えました。

 その後領民を失ったこの地域には、幕府による移民政策によって九州各地や小豆島などから農民が移住し、手延そうめんの技術もこのときに伝わったともいわれています。

 
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