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県指定文化財

最終更新日:


<有形文化財>

旧長崎税関口之津支署庁舎 (きゅうながさきぜいかん くちのつししょ ちょうしゃ)

 

 旧長崎税関口之津支署は、明治11年、口之津港が三井財閥による三池炭鉱の石炭輸出港として許可された事を契機に開設された。税関支署は元々口之津町内の別の場所にあったが、明治32年の移転に際して現在の建物が建てられている。

 天井が高い造りの大型木造洋館であり、内部は検査場、事務室、応接室などからなる。明治後期の大型木造洋館による税関庁舎が現代まで残されている事は全国的にも珍しい。なお税関開設当初の口之津港は、長崎港の中継港としての役割が主であったが、明治22年に門司港や博多港等とともに特別輸出港(※)に指定されて以来、全盛期へと向かう。一時は長崎港をも凌ぐ輸出高があったという。明治42年に三池港(福岡県)が開かれたのを機に、入港船舶の減少、大正12年には商社の撤退と、口之津港は徐々に国際貿易港としての役割を終えていく。現在建物は、口之津歴史民俗資料館(※)として活用されている。

 

特別輸出港・・・米、麦、石炭等の特定品目に限って輸出許可の指定を受けた港。

※資料館の紹介ページはこちら

 

所 在:口之津町甲16番地7

地 図

 

<天然記念物>

深江町諏訪神社の社叢(ふかえちょう すわじんじゃのしゃそう)

 

 国道251線と深江小・中学校の間にある諏訪神社は、正長元年年(1428)に信濃の上田庄から移住した人が、諏訪大社を勧請し開かれたと伝えられる。本殿の周囲には樹勢の良いクスノキ、チシャノキ、ハリギリ、アコウなどが群生する。とりわけ本殿に向かい左手にある大楠は、目通りの幹周りが6.6m程もある巨木であり、樹齢は600年程度はあると考えられる名木である。

 

所 在:深江町丁3142 諏訪神社

地 図

 

<史跡>

南蛮船来航の地(なんばんせん らいこうのち)

口之津港は永禄五年(1562)、有馬義直(後の義貞)により南蛮貿易港(※)として開かれた。永禄六年(1563)には義貞の招きによりルイス・デ・アルメイダが教会を開き、翌年には日本における宣教活動の主要人物であったトーレス神父が口之津へ移ったこともあり、以来この地は日本におけるキリスト教布教の根拠地として栄えていく。特に天正七年(1579)には、ヴァリニャーノ司祭(※)により、全国宣教師会議が口之津の地で開催されている。ポルトガル船の入港地としては、永禄十年(1567)より天正十年(1582)に至るまで、その役割を果たしている。南蛮船が来港したと伝えられる当地は、現在の海岸線よりも少し陸地に入り込んだ、閑静な公園の一角にある。

南蛮・・・元々は古代中国の中原(ちゅうげん)と呼ばれる地域で、南方異文化圏の人々を差別的に呼んだもの。ただし中近世の日本においては東南アジア地域やポルトガル・スペインなどの南欧諸国を指す一般的用語となる。また、それらの国から渡来した文物も「南蛮」と呼んだ。

ヴァリニャーノ司祭・・・天正遣欧少年使節の発案や、日本人司祭育成のための教育機関(セミナリヨ及びコレジヨ)

                                       の充実に寄与した。

 

所 在:口之津町唐人町 開田公園内(駐車場・トイレあり)

地 図

 

勤皇大智禅師大梅の塔(きんのうだいちぜんじ たいばいのとう)/円通寺門礎石(えんつうじもん そせき)

 

  勤皇大智禅師大梅の塔     円通寺門礎石

 大智禅師(1290~1366)は、曹洞宗の開祖である道元禅師の(法灯(※ほうとう)を継ぐ、第六代の祖と伝えられる名僧である。肥後に生まれ、加賀の大乗寺などで修行した後、25歳で元に渡り、十余年の歳月を経て帰国する。

 以来、加賀の祇陀寺(ぎだじ)、(菊池の聖護寺(しょうごじ)、玉名の広福寺などを開山した後、正平八年(1353)、有馬澄世の招きにより加津佐へ赴き、水月山円通寺を開山したとされる。当時は南北朝の争乱期にあたり、菊池氏が南朝方として、足利幕府方と熾烈な争いを行っていた時期である。当時、有馬氏は菊池氏と行動を共にしていた関係から、有馬氏祖先の菩提を弔うため創建された水月庵に招かれたようである。大智禅師がどのように人々を教化(※きょうげ)したか詳しくは判らないが、加津佐の風光をとても好んだとも云われる。

 水月山円通寺は大きな山門や諸堂よりなる寺院であったようだが、大智禅師の没後から200年余り後の天正年間、有馬氏がキリスト教に改宗したことから寺は廃される。そのため今となっては円通寺の全容を目にすることはできないが、禅師の遺徳が偲ばれる史跡が残されている。

 その一つは「勤皇大智禅師大梅の塔」であり、禅師の墓石とされるものである。禅師が亡くなり、その遺骨を分かち、禅師が開創にたずさわった四寺の塔に納めた際、大梅の塔と名付けられたようである。塔は高さが1.4m程であり、塔身(とうしん)、蓮弁石座(れんべんせきざ)、柱竿(はしらざお)、請花礎石(うけばなそせき)などの部位で構成される。塔身には「当寺開山大智和尚」、台座には「南流正平二十一丙年十二月十日得寿七十七歳於当山示寂」などの文字が刻まれており、正平二十一年(1366)に77歳で亡くなったことが判る。

 もう一つは「円通寺門礎石」と呼ばれるものであり、円通寺の門柱を建てる際に据えられた石である。玄武岩の自然石を素材に用い、中央部分には柱を据えるための突起を粗く削り出している。重厚感のある作りで、円通寺の威厳ある姿を想起させる。

 

法灯・・・「仏法がこの世の闇を照らすさま」、「最高位の僧」などの意。

教化・・・人を教え導き、また、道徳的、思想的な影響を与えて望ましい方向に進ませること。

 

所 在:加津佐町己225

地 図

 

布津町キリシタン墓碑群(ふつちょうキリシタンぼひぐん)

 

 布津町中通の宮ノ元共同墓地の一角にはキリシタン墓碑が集めて置かれている。 

 元々は周辺に散在していたものが、この場所へ集められたと云われる。6基が史跡としての指定を受けており半円柱型(蒲鉾型)、偏平蓋石型、切妻型などの墓碑がある。半円柱型をした墓碑の正面軸部には、線彫りによって、台付きのカルワリオ十字(※)が施されている。また同墓碑の背面中央付近には小さい穴があり、十字架を固定するために作られた可能性もある。その他の墓碑は、いずれも無紋無銘である。

 

カルワリオ十字・・・「干」字状の十字文。

 

所 在:布津町乙1370 宮ノ本共同墓地

地 図

 

有家町尾上のキリシタン墓碑/有家町力野のキリシタン墓碑<キリシタン史跡公園>           (ありえちょう おのうえのキリシタンぼひ/ありえちょう りきののキリシタンぼひ<キリシタンしせきこうえん>)

 有家地区は市内の中でも特にキリシタン墓碑が多く発見されている。桜馬場の集落の外れには、周辺から集められたキリシタン墓碑が集められ、史跡公園として整備されている。

 尾上のキリシタン墓碑については、もともと付近の農道沿いの石垣にはめ込まれていたという。比較的小振りな箱形(偏平蓋石型)であり、表面には縦書きの3行構成により、次の銘が刻まれている。

    慶長十二年丁未

               類子

    三月二十四日

 「類子」は「ルイス」と読むことができ、男性のクリスチャン・ネームである。慶長十二年は西暦1607年にあたる。

 力野のキリシタン墓碑もについても、発見当初は周辺の畑石垣にはめ込まれていたとされる。その後、個人宅に置かれていたが、現在史跡公園内に移設されている。2基が史跡としての指定を受けており、いずれも偏平蓋石型の墓碑である。一方の墓碑には、台付きのカルワリオ十字文、もう一方の墓碑には花十字文が平彫りされている。

 

所 在:有家町尾上名5632 キリシタン史跡公園

地 図

 

有家町中須川のキリシタン墓碑(ありえちょう なかすかわのキリシタンぼひ)

 

 2基の墓碑が指定を受けている。写真左側の墓碑は切妻蓋石型(きりづまふたいしがた)あるいは庵型(いおりがた)などと呼び、家の屋根に似た形のものである。正面の軸部には、カルワリオ十字文が印刻されている。もう一方の墓碑は箱型(偏平蓋石型)のものであり、背面の中央付近には、陽刻(浮き彫り)による堂々とした花十字文が施されている(右写真)。

 なおこの周辺にはセミナリヨ(※)があったと伝えられれている。

 

セミナリヨ・・・修道士育成のための初等教育機関。現在の中学校に相当する。

 

所 在:有家町中須川358 国道251線沿い

地 図

 

有家町小川のキリシタン墓碑(ありえちょう こがわのキリシタンぼひ)

 

 小川名の住宅の一角に祀られている墓碑である。形態としては箱型(偏平蓋石型)である。建てた状態で置かれており、正面部分は墓碑を伏せた際の背面に相当する。この正面部分には、陽刻による花十字文が施されいる。

 墓碑の大きさや形、あるいは文様の大きさ、形、配置などが上段で紹介した「中須川のキリシタン墓碑」の一基と非常によく似ている。距離的に近いこともあり、同じ職人または職人集団の手によって作られた可能性も十分に考えられるだろう。

 

所 在:有家町小川名

※ 個人宅の庭先に祀られています。現地で見学される場合は、必ず家の方に断りのうえ、マナーを守って見学して下さい。

 

西有家町里坊のキリシタン墓碑(にしありえちょう さとぼうのキリシタンぼひ)

 大正6年、付近の畑の中から発見されたと云われる。小振りな偏平蓋石型の墓碑であり、写真の上部側をやや欠いている。背面の中央には大きな台付きのカルワリオ十字文が、太くしっかりとした陰刻によって描かれている。周囲には未指定であるが、無紋無銘の偏平蓋石型墓碑も4基置かれている。

 なおこのキリシタン墓碑は、町名と大字に由来してその名が付けられている訳だが、墓碑の所在地の小字は「切支谷(発音はキリシタン)」となっており、興味深い点として挙げられるだろう。

 

所 在:西有家町里坊1389-2

地 図

 

北有馬町谷川のキリシタン墓碑(きたありまちょう たにがわのキリシタンぼひ)

 

 有馬氏本城の日野江城跡にほど近い墓地の一角にある。形態としては偏平蓋石型にあたり、わずかに中膨れする。均整があり、墓碑の軸面や背面には縁取りも見られるなど、非常に丁寧な作りである。

 一方の軸面には陽刻の花十字文が施され(右写真)、もう一方の軸面には縦書きにより次の銘が記されている。

 慶長拾伍年 流しや 生年二十歳 拾一月拾七日

 「流しや」は「ルシヤ」であり、女性のクリスチャンネームである。慶長十五年は西暦1610年にあたり、「生年二十歳」と「拾(十)一月拾(十)七日」はそれぞれ享年と命日を指しているだろう。日野江城跡にも近く、有馬ゆかりの貴婦人の墓とも言われる。若くして亡くなった婦人を偲び、とりわけ美しい墓碑が用意されたのだろうか。

 

所 在:北有馬町戊1753 谷川共同墓地

地 図

 

北有馬町西正寺のキリシタン墓碑(きたありまちょう さいしょうじのキリシタンぼひ)

 北有馬町坂上下名服部にある共同墓地の隅には、4基のキリシタン墓碑が置かれている。当地の小字は「服部」であるが、北西側に近接する小字に「八良尾(はちらお)」と言う地名があり、これらの墓碑を地元では「八良尾のキリシタン墓碑」と呼ぶことも多い。この「八良尾」という地名であるが、天正十六年(1588)から文禄四年(1595)の期間、セミナリヨが前後2回に渡って設置された場所であり、ルイス・フロイスが著した『日本史』など当時の記録にも見ることができる。

 墓碑については3基が指定を受けている。このうち2基は小振りな蓋石型のものであり(左および中央写真)、台石部分と一体化するという特徴が非常に珍しい。長年の風化により判りづらくなっているが、正面軸部に花十字文を描いている。もう1基の墓碑は頂部に丸みを持つものの、側面の立ち上がりが直線的であり切妻寝棺形(庵形)として特徴づけられる。正面軸部は周囲を残して彫りくぼめ、縁取りを表現している。また中央部分には花十字文を平彫りしている。

  

所 在:北有馬町丙5495

地 図

 

南有馬町吉川のキリシタン墓碑(みなみありまちょう よしかわのキリシタンぼひ)

 南有馬町吉川名の下方墓地内に所在する墓碑であり、形態的な特徴から台付樽型と呼ばれている。横幅に対する長さが短めであり、少し中膨れした形状がタルに例えられたものであろう。この地域でみられるキリシタン墓碑は、概ね偏平蓋石型のものが多く、他に半円柱型や切妻型のものが散見されるのだが、樽型と呼ばれるものは少ない。また台座が一体化した台付樽型はこの一基のみである。文様や銘はみられない。

 墓碑と樽の関係であるが、ローマ帝国の時代、ブドウ酒樽を棺として用いる習俗のあった地域にキリスト教が広まり、次第に樽をモチーフとした墓碑が型式の一つとして採用されたとの見方がある。

 

所 在:南有馬町甲805

地 図

 

口之津町白浜のキリシタン墓碑(くちのつちょう しらはまのキリシタンぼひ)

 

 口之津町白浜海岸の松林内にある墓碑である。口之津は16世紀後半からのカトリック布教において、その寄港地として特に大きな役割を担った地域の一つである。

 墓碑の形態としては樽型(※)にあたる。やや小型の墓碑であり、両方の軸部内側を彫りくぼめ、縁取りの表現を行っている。また正面の軸部には花十字文を線彫りによって表現している。やや赤みを帯びた石材は、市内の他のキリシタン墓碑にはあまり見られず、この点も特徴の一つと言えるだろう。

 

樽型…上段の「南有馬町吉川のキリシタン墓碑」を参照。

 

所 在:口之津町名字白浜2829-3

地 図

 

加津佐町須崎のキリシタン墓碑(かづさちょう すざきのキリシタンぼひ)

 加津佐町須崎墓地において3基が指定されている。1基は半円柱型に分類される墓碑である(左列写真)。正面の軸部には縦書きにより、次の銘文が刻まれている。

 慶長十八年 ■月二日 年二十九 る井寸

 末文の「る井寸」は「ルイス」と読むことが適当と考えられ、男性のクリスチャンネームを刻んだものであろう。慶長十八年は西暦1613年にあたる。「■」で示した部分は、本来なら何月かを示す数字が入ると思われるが、表面が欠けており不明である。

 残る2基は偏平蓋石型のものである。墓碑の台座にあたる可能性もある。うち1基は正面軸部に台付のカルワリオ十字文を平彫りによって施している(中央列写真)。もう一基は、奥行よりも横幅の方が長いという特徴をもっており、長崎県下で唯一とされている(右列写真)。正面軸部には、浮き彫りによって台付きの十字文を表現している。

  

  

所 在:加津佐町己2943 須崎共同墓地
 

加津佐町砂原のキリシタン墓碑(かづさちょう さはらのキリシタンぼひ)

 

 加津佐町野田浜海岸の松林内には、2基のキリシタン墓碑がある。いずれも偏平蓋石型の墓碑である。うち1基(右写真)はやや厚みがあり、よく均整のとれた墓碑である。正面軸部には花十字文の輪郭が線刻されている。素材にはきめの細かい砂岩が用いられており、全体的に丁寧な作りの墓碑である。

 残る1基については、相対的に薄手のであり、無紋無銘の墓碑である。

 

所 在:加津佐町乙468-1 野田浜海岸

地 図

 

有馬の石橋群5橋(ありまのいしばしぐん5きょう)

 南島原市北有馬町内の石橋群が長崎県指定(建造物)に指定されています。

 指定された文化財は、有馬川流域に架橋された5橋(荒田下橋、田中橋、元平橋、坂下橋、面無橋)で、地方の近代化を象徴する長崎県の代表的な文化財として高く評価されました。

 5橋のうち荒田下橋・田中橋・坂下橋の3橋は明治20年代~30年代、元平橋は大正10年に架橋されました。これらの石橋は、石質の硬い玄武岩で構成され壁石も粗削りで長さが異なります。また、壁石は転石を利用し乱石で積まれています。一方、面無橋は地元の伝承から架設年代が文化元年(1804)と推定され、石質の比較的軟らかい輝石安山岩を乱石で積んでいるところが特徴です。面無橋は、明治期以降に架橋された4橋の原型ともなるので、長崎県を代表する石橋として高く評価されています。 

荒田下橋 田中橋 元平橋

荒田下橋(あれたしもばし)        田中橋(たなかばし)            元平橋(もとびらばし)

 

坂下橋 面無橋

坂下橋(さかしたばし)          面無橋(おもなしばし)

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