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国指定文化財

教育委員会 文化財課 TEL:0957-73-6705 FAX:0957-85-2767 メールbunkazai@city.minamishimabara.lg.jp
<史 跡>

原城跡(はらじょうあと)

原城跡全景

原城跡本丸

 

     本丸櫓台石垣         天草四郎像(北村西望作)               

       原城跡出土遺物        箱形十字架

    (砲弾・銃弾・クルス・メダイ・ロザリオ)

本丸虎口内の破却状況

 市の南東部、有明海に突き出した台地上に残る肥前有馬氏ゆかりの城跡である。寛永十四年(1637)から翌年にかけて起こった島原天草一揆の主戦場として広く知られる。

 築城年代については15世末と考えられてきた向きもあるが、少なくとも総石垣を備えた本丸については慶長四年(1599)から同九年(1604)頃の所作であることが、これまでの発掘調査やイエズス会の記録等によって明らかとなっている。歴史的背景に照らしてみると、城主有馬晴信は文禄・慶長の役(1592~1598)に参加しており、肥前名護屋城あるいは倭城に用いられた豊臣系の築城技術を学んだ晴信が、これを自らの城である原城の本丸に採用したものと考えられる。

 城全体の縄張り構成については、標高30mほどにある本丸を基点として、北方に二ノ丸および三ノ丸、西方に鳩山出丸、南に天草丸がある。規模としては南北約1.3km、東西約0.5kmの広がりがあり、面積にして約42万㎡と非常に広大な城である。周囲はおよそ北・東・南の三方を海に囲まれており、西側にも「塩濱」と呼ばれる湿地帯が広がっていたことから、城の防衛機能としても非常に堅固であったと考えられる。

 本丸のみを見た場合でも、およそ2万㎡の規模を持つ。北西に正門を備えており、本丸の約40%をも占める巨大な外舛形虎口(※そとますがたこぐち)を経て、主要な郭(※くるわ)部分に至る。郭の西側には張出しがあり、天守に相当する三層櫓が建っていたとの記録もある。このほか、東側には池尻口門跡が現存する。

 元和元年(1615)における一国一城令によって森岳城(島原城)が築城されるにあたり、原城は廃城となる。ただし城の政治的機能は失われるが、軍事的な構造物としては廃城後も利用できたようであり、その点が島原天草一揆において一揆群の拠点となった大きな理由の一つと考えられている。

 特に本丸を中心に発掘調査が進んでいるが、中世末~近世初頭に属する大量の陶磁器、島原天草一揆の壮絶さを物語る砲弾、銃弾、人骨、また一揆軍が身につけていたであろうクルス、メダイ、ロザリオなどのキリシタン遺物も多く発見されている。なお島原天草一揆の後には、徹底した破却(※)が行われており、平成の発掘調査によって発見されるまで、石垣を備えた本丸の姿は土砂によって完全に埋め尽くされていた。

※島原天草一揆の詳細については、南島原市教育委員会TOPより「文化財」>「島原天草一揆(島原天草の乱)」とお進み下さい。

外枡形虎口…虎口は門から進入した通路にあたる部分。外枡形は平場をなす空間に対して、外側へ張り出した構造を意味する。

…城内の平場にあたる部分。

破却…城を取り壊す儀礼作法。

所 在:南有馬町大江名~浦田名

地 図

添付資料 原城跡紹介リーフレット(その2) 新しいウィンドウで表示(PDF:2.82メガバイト)

 

※原城跡が立地する台地の露頭では、基盤の口之津層群と約9万年前の阿蘇火山噴火による大規模火砕流(Aso-4火砕流)の堆積を観察することができ、地質学的にも価値の高い場所である。そうしたことから、世界ジオパーク認定を受けている「島原半島ジオパーク」の重要ポイントの一つに挙げられている。 島原半島ジオパークの紹介ページへ

 

日野江城跡(ひのえじょうあと)

日野江城跡全景

二ノ丸地区 階段遺構

二ノ丸地区出土 金箔瓦

本丸地区出土 法花

 肥前有馬氏代々の居城とされる城跡である。築城時期については、鎌倉期、南北朝期など諸説あるが、詳細については不明である。元和元年(1615)の一国一城令を受けて森岳城(島原城)が築城されることとなり、日野江城は廃城となる。

 城は丘陵地の先端に立地しており、面積はおよそ11万㎡と広大である。大小10余りの曲輪より構成されており、およそ中心部分が本丸、東側部分が二ノ丸と位置付けられている。本丸西方の一部が三ノ丸に相当する可能性がある。特に本丸を構成する曲輪の一つと、二ノ丸を構成する三段の曲輪は広く、長辺が100m程度ある。

 城の東西には長大な竪堀が残されており、本丸から北方へはこの竪堀の間を繋ぐ、土橋状の遺構によって渡ることができる。その先には、物見台として利用された可能性を持つ曲輪などがある。

 発掘調査はこれまで二ノ丸を中心に実施しており、近年本丸の一部にも着手している。

 調査によって発見された主な遺構として、二ノ丸においては仏塔の一部や切石を用いた独特な階段遺構、100m規模の階段遺構、掘立建物跡などを検出している。遺物としては、大量の土師器(はじき)、瓦などが出土している。瓦においては、金箔を施した鳥衾瓦(とりぶすまがわら)も出土している。出土事例の少ない希少な瓦であり、豊臣秀吉によって与えられた可能性についても指摘がある。

 本丸における遺構としては、大型土坑、溝状遺構、掘立柱建物跡などを検出している。また、旧地形を大規模に造成して広大な曲輪が築かれている点も最近判ってきた。遺物について、土師器は二ノ丸同様に多く出土するが、瓦の出土は殆ど皆無であり、二ノ丸と大きく異なる。調査による解明が必要だが、曲輪による機能の違い、または年代差などを反映している可能性もある。このほか法花(ほうか)と呼ばれる磁器が近年出土している。搾り出しによる細線区画や色彩豊かな着色を大きな特徴としており、全国的にも極めて出土例が少ない。

 築城年代、全体構造、原城跡との関係性など明らかにしなければならない課題も多い。

 

所 在:北有馬町谷川名

地 図

 

 

吉利支丹墓碑(キリシタンぼひ)

 西有家町須川の共同墓地一角にある。昭和4年(1929)に土中より発見されたものである。大振りな半円柱蓋石型(蒲鉾型)の墓碑であり、きめ細やかな砂岩を素材に用いる。作りは非常に丁寧であり、均整のとれた形と白みを帯びた色調などが美しい墓碑である。両面の軸部には二重の縁取りを施している。一方の軸部には次の銘文を刻み、その上部に小振りな楔(くさび)十字文を施している(下段左)。

      FIRI SACYE MO XONE GOX IRAI 1610 IVG 16 QEICHO 15

(判読例)  フィリ作衛門ディオゴ生年■■ 御出生以来1610 10月16慶長15

  ■■は判読不能であるが、発見当時の目撃では「83」であったとされる。

 被葬者の名は、堀(?)作衛門ディオゴであり、信徒組織「コンフラリア」のリーダーとも考えられている。慶長十五年(1610)10月16日が命日にあたる。なお、西暦を交えるローマ字碑文としては、日本で最古のものとされている。

 もう一方の軸部にはクローバー十字文の平彫りを施し(下段中央)、また背面には大きな花十字文を薬研彫りによって描いている。

 

              吉利支丹墓碑                            軸部碑文

  

    軸部・碑文(拓影)       軸部・クローバー十字(拓影)       背面・花十字(拓影)

拓本3点は大石一久氏の提供による。

所 在:西有家町須川240

地 図

 

原山支石墓群(はらやましせきぼぐん)

 雲仙山系に連なる標高250mほどの緩やかな台地上に残る、国内有数の支石墓群である。年代としては縄文時代の晩期終末から弥生時代初頭頃のものと考えられる。支石墓とは、まず地下構造として石棺・甕棺・土坑などを設け、埋葬後に周囲に支石を置き、その上部を巨石によって覆う墓の事である。もともと朝鮮半島に特徴的な墓の形態だが、特に半島南方の碁盤形と呼ばれるタイプのものが伝わっている。

 原山支石墓群発見のきっかけは終戦間もない頃の開墾によるもので、もともと3群からなるものであったが、第1群については当時において消滅している。現在は第2群および第3群の支石墓併せて約60基が残り、整備を行っている。

 

         原山第3支石墓群                        箱式石棺を伴う支石墓

所 在:北有馬町坂上下名字新田ほか

地 図(第2支石墓群)

地 図(第3支石墓群)

 

<天然記念物>

岩戸山樹叢(いわとやまじゅそう)

 岩戸山は島原半島の南西部にあり、海に突き出した海抜100mほどの小山である。山頂付近は凝灰角礫岩などの母岩がほとんど露出した角岩地であり、山麓の傾斜地部分は崩積土によって覆われている。

 山麓の傾斜地にはタブノキやスダジイを主とした照葉樹林があり、このほかイスノキ・ショウベンノキ・オガタマノキ・ヤマモモ・ヤブツバキなどの照葉樹を伴う。この照葉樹林の地表においては、アオノクマタケラン・ノシラン・ヤブラン・フウトウカズラ・オオイワヒトデなどの常緑草木が密生する。これらの特徴は島原半島南部における低地照葉樹林の原形をよく残すとされている。 

 一方山頂の岩角地ではクロマツが広く生育し、ほかイワシデ・イワガサ・マツバウツギ・キハギなどと岩角地特有の群落を形成する。また、ハカマカズラ・ノグルミもみられれる。

 ちなみに岩戸山は古くは「岩殿山」と呼ばれ、観音道場があったとされる。また海に面した中腹には「穴観音」と呼ばれる観音様を祀った洞窟が残る。カトリックが有馬氏の庇護下にあった天正十年(1582)、カトリックの宣教師らがこの洞窟に隠れていた仏教徒らを襲い、奪い去った仏像は口之津の修道院へ持ち帰り、薪(たきぎ)にしたという。また大きくて運び出せなかった仏像については、その場で破壊したという。当時の状況については、襲撃に参加していたルイス・フロイス自らの手によって著された『日本史』に記録がみられる。

 

            岩戸山の遠景                          樹叢近景

  

     樹叢内の様子            さるの墓              穴観音

所 在:加津佐町字岩戸山

地 図

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