原城跡(はらじょうあと)

原城跡全景
 原城跡本丸

本丸櫓台石垣 天草四郎像(北村西望作)
 
原城跡出土遺物 箱形十字架
(砲弾・銃弾・クルス・メダイ・ロザリオ)

本丸虎口内の破却状況 |
市の南東部、有明海に突き出した台地上に残る肥前有馬氏ゆかりの城跡である。寛永十四年(1637)から翌年にかけて起こった島原・天草一揆の主戦場として広く知られる。
築城年代については15世紀末と考えられてきた向きもあるが、少なくとも総石垣を備えた本丸については慶長四年(1599)から同九年(1604)頃の所作であることが、これまでの発掘調査やイエズス会の記録等によって明らかとなっている。歴史的背景に照らしてみると、城主有馬晴信は文禄・慶長の役(1592~1598)に参加しており、肥前名護屋城あるいは倭城に用いられた豊臣系の築城技術を学んだ晴信が、これを自らの城である原城の本丸に採用したものと考えられる。
城全体の縄張り構成については、標高30mほどにある本丸を基点として、北方に二ノ丸および三ノ丸、西方に鳩山出丸、南に天草丸がある。規模としては南北約1.3km、東西約0.5kmの広がりがあり、面積にして約42万平方メートルと非常に広大な城である。周囲はおよそ北・東・南の三方を海に囲まれており、西側にも「塩濱」と呼ばれる湿地帯が広がっていたことから、城の防衛機能としても非常に堅固であったと考えられる。
本丸のみを見た場合でも、およそ2万平方メートルの規模を持つ。北西に正門を備えており、本丸の約40%をも占める巨大な外舛形虎口(※そとますがたこぐち)を経て、主要な郭(※くるわ)部分に至る。郭の西側には張出しがあり、天守に相当する三層櫓が建っていたとの記録もある。このほか、東側には池尻口門跡が現存する。
元和元年(1615)における一国一城令によって森岳城(島原城)が築城されるにあたり、原城は廃城となる。ただし城の政治的機能は失われるが、軍事的な構造物としては廃城後も利用できたようであり、その点が島原天草一揆において一揆群の拠点となった大きな理由の一つと考えられている。
特に本丸を中心に発掘調査が進んでいるが、中世末~近世初頭に属する大量の陶磁器、島原天草一揆の壮絶さを物語る砲弾、銃弾、人骨、また一揆軍が身につけていたであろうクルス、メダイ、ロザリオなどのキリシタン遺物も多く発見されている。なお島原天草一揆の後には、徹底した破却(※)が行われており、平成の発掘調査によって発見されるまで、石垣を備えた本丸の姿は土砂によって完全に埋め尽くされていた。
※島原天草一揆の詳細については、南島原市教育委員会TOPより「文化財」>「島原天草一揆(島原天草の乱)」とお進み下さい。
外枡形虎口…虎口は門から進入した通路にあたる部分。外枡形は平場をなす空間に対して、外側へ張り出した構造を意味する。