概 要
寛永十四年(1637)から翌年にかけて、島原半島南部で起こった一揆である。農民一揆及びキリシタン一揆としての側面を持つ。
時の島原藩主、松倉氏の治世下において行われていた年貢の取り立ては、本来の石高を大幅に上回るものであった。また禁教令に伴うキリシタンの取り締まりにあたって、棄教を拒むものに対する仕打ちは苛烈を極めた。こうした状況に寛永十四年の飢饉も重なり、ついに耐えかねた領民が代官を殺害する。この事件に呼応するように、島原半島各地で次々に領民が蜂起する。一揆勢は松倉氏の居城である森岳城(島原城)に迫るも、城を落とすには至っていない。こうした動きは対岸の天草地方とも連動しており、富岡城の攻囲も行われている。
一揆の終盤において主戦場となったのは、一国一城令により既に廃城となっていた原城であり、おもに島原半島南目(みなんめ、※南部の意)地方及び天草地方の領民併せて約3万7千人が立て籠もった。一方の幕府連合軍は総勢12万の軍勢によって、この鎮圧にあたっている。
およそ3ヶ月に及ぶ籠城戦の末、兵糧攻めによって疲弊した一揆勢は幕府連合軍の前に敗れ、一揆は終息する。投降者はあったものの、一揆勢の多くがこの戦いによって亡くなっている。一方の幕府軍もまた、甚大な被害を被っている。
一揆の後、藩主の松倉勝家は所領を一部没収のうえ、斬首となっている。寛永十六年(1639)には第5次鎖国令によって、ポルトガル船の国内入港が禁止されている。なお日本においてキリスト教の布教を行ったのはポルトガルである。一揆において幕府連合軍に武器弾薬を支援したオランダとは、以後も出島の商館(1641~)を通じた交易がある。鎖国政策による交易の制限は一揆以前より進められていたものだが、この第5次鎖国令については、一揆の影響も見受けられる。幕府の政策に影響を及ぼすほど島原天草一揆は重大な事件であったと言える。
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一揆にまつわる場所
原城跡(南島原市教育委員会TOPより「文化財」>「国指定文化財」を参照ください。)
甬道(ようどう)
甬道とはトンネルのことである。幕府連合軍は原城攻略のため、日向(現在の宮崎県)より金掘坑夫を呼び寄せ、城内へ攻め入ろうとした。これを察知した一揆勢は迎え穴を掘り、生葉を燻したり人糞を注ぐなどして応戦し、この計画を失敗に終わらせた。入り口の跡が、北三ノ丸方面の浅間神社そばに残る。
板倉重昌碑
板倉重昌は京都所司代板倉勝重の三男である。一万二千石の大名であり、将軍家光の談判衆であった。一揆鎮圧のため上司として登用され、寛永14年12月9日有馬入りする。翌日より大軍勢をもって原城を攻めるが、予想以上の抵抗に遭い、苦戦を強いられる。そうした中、第二次征討使として松平信綱の派遣を知った重昌は功を焦り、翌年1月1日に原城総攻撃を決行する。自ら陣頭に立ち、闘いに臨んだ重昌であったが、この戦闘によって討死する。享年51歳。
碑は国道251線より原城に進入し、本丸方面と三ノ丸方面への分岐点手前に建つ。重昌を偲ぶものであり、延宝9年(1681)に孫である重道の依頼よって製作されたが、この時は建立が許可されなかった。さらに百年以上が経過した寛政10年(1798)、子孫の板倉八衛門勝彪らにより建立が叶っている。
板倉重昌碑 碑文 (PDF:31.4キロバイト)
鈴木重成建立供養碑
原城跡そばの八幡神社境内にある石碑。「島原の乱供養塔」などとも呼ばれる。幕府方として参戦した鈴木重成により、一揆終結後10年が経過した慶安元年(1648)、民心の安定を図るため建立されている。
碑文では、キリシタンを「鬼理支丹」として「鬼」の字を当て、或いは益田四郎(天草四郎)が民衆を誑(たぶら)かしてキリスト教への改宗を勧めて廻ったなどの表現があり、当時の一揆に対する認識がよくうかがえる。
鈴木重成建立供養碑 碑文 (PDF:30.3キロバイト)
骨カミ地蔵
原城本丸の正門石垣の上に立つお地蔵様。明和三年(1766)、有馬願心寺の注譽住職と各村の庄屋らによって、各地より出る一揆の遺骨を集めて供養したとされる。国文学者の八波則吉は「ほねかみ地蔵に花あげろ 3万人も死んだげな 小さな子どももいたろうに ほねかみ地蔵に花あげろ」と詩っている。「ほねかみ」とは「骨をかみしめる」の意味である。