明治時代に架けられた石橋群である。自然石や切石によるアーチ橋が北有馬町の有馬川水系に10基ほど残され、このうち、5基が県指定有形文化財、残りの5基が市指定有形文化財になっている。
アーチ橋は石材の荷重を圧縮力で支える構造になっており、架橋には高度な技術を必要とする。壁石など大部分は大きさや形の異なる自然石が積まれている。自然石を用いる最大の利点としては、素材の調達が比較的容易だという事が挙げられる。橋は生活道路の一部でもあるため、修理には迅速さを求められ、そうした背景から自然石を多用する様式が採用されたのであろう。
茸山大菩薩宝篋印塔(なばやま だいぼさつ ほうきょういんとう)
鎌倉時代後半の作と考えられる宝篋印塔である。西有家町見岳地区茸山にある大菩薩権現神社の本堂裏に祀られている。基礎の一部が埋没しているため、正確な高さは不明であるが、概ね2mを超えるであろう大型の塔。佐賀型式の塔の初期的な特徴を持つものであり、それらの中で最大級の規模を誇る。島原半島の中世史や石造美術史において貴重な資料である。
所 在:西有家町見岳名字上八反田3525番 大菩薩権現神社
<史跡>
西鬼塚石棺群(にしおにづか せっかんぐん)
縄文時代から弥生時代頃の石棺群である。有家町蒲河地区において農作業時に発見され、現在は同町小川の有家総合運動公園内に移設整備されている。このような集団埋葬遺跡については、国指定の原山支石墓群を除いては市内で確認されていない。当時の埋葬形態の習俗を示しており、価値の高いものである。
所 在:有家町小川957 有家総合運動公園内
地 図
天ヶ瀬古墳(あまがせこふん)
古墳時代終末期のものと考えられる円墳である。横穴式石室がほぼ完全な状態で残っている。石室は開口しており、前室と後室で構成されていることが確認できる。石室を覆っていた墳丘の盛土は一部流出している。
地元では「鬼の岩屋」と呼ぶことも多い。巨石によって築かれた石室の姿から、鬼の棲家が連想されたものであろう。古墳としての姿を確認できる例は、市内では他に無く、この地域でも埋葬文化としての古墳が取り入れられたことを示す貴重な史跡である。
所 在:布津町坂下名天ヶ瀬地内
地 図
<天然記念物>
専念寺の槙の木(せんねんじ の まきのき)
有家町専念寺の境内に立つ羅漢槙である。寛永十四年(1637)から翌年にかけて起こった島原天草の乱の後、島原城主となった高力摂津守忠房が、再興を願ってお手植えしたとの言い伝えがある。
台風による被災で一回り小さくなっているが、最も樹勢のある際には、高さ12.5m、枝張り10m程の巨木であった。
島原天草の乱では半島南部の多くの人が犠牲になったが、乱後の再興が現在の南島原市の基礎になっている。そうした再興の逸話にまつわる名木である。
所 在:有家町寺之前 専念寺境内内
地 図
あこう群落(あこうぐんらく)
口之津町浜区の早崎港周辺には20本ほどのアコウが群生している。アコウは南方系の植物であり、クワ科に属する半常緑高木である。分布においては、ちょうど長崎県付近が北限と考えられている。木はおよそ10~20m程の大きさに育つ。成長が早く、樹勢や根の張りも強い。そうした特徴から「市の木」にも指定されている。
早崎港周辺のアコウは群生状況が見事で、海岸集落の景観ともよく調和している。また景観のみでなく、防風林としての役割も果たしている。
所 在:口之津町浜区 早崎港周辺
地 図