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西望記念館「西望生誕之家」

最終更新日:

 

 

      

               (北村西望先生作業風景)

 

            

                        (北村西望先生生家)                                       (聖観世音菩薩像)

                                                                    
■西望記念館のご紹介

 西望公園は、昭和54年に地元の皆さん並びに、全国から寄せられたご協力と、故北村西望先生のご厚意により、ここ西望生誕の地に作品を展示した公園です。

 園内には屋外に13点、西望の生家である西望記念館には、彫刻・書・絵画など約60点の作品が展示され、西望芸術の足跡をたどることができます。静かな農村にたたずむこの記念館は、有明海や天草の島々や島原の乱で有名な国指定史跡「原城跡」も望め、すばらしい景観の中にあります。西望芸術を育み、そして成長させた原点ともいえるこの地で、西望芸術をご堪能ください。

 また、市内の主要なところには代表的な作品があり、西望作品を身近に感じることができます。

    

記念館ご利用案内

【開館時間】 9時から17時

【休  館  日】毎週木曜日・年末年始(12/29~1/3)

【料        金】個人:一般(大人)200円(100円) 高校生150円(70円) 小・中学生100円(50円)

              団体:一般(大人)150円(70円) 高校生100円(50円) 小・中学生70円(30円)  

        ※団体割引は20名以上からとなります。

        ※身体障害者手帳、療育手帳及び精神障害者保健福祉手帳をお持ち方は、受付で

         ご提示いただければ( )内の料金となります。

【駐  車  場】14台

【問合せ先】西望記念館「西望生誕之家」(南島原市南有馬町丙393-1)

          TEL 0957-85-2922

【アクセス】南島原市役所から車で約15分程度

 

北村西望の生涯

北村西望先生

 北村西望(きたむらせいぼう)は、明治17年12月16日、旧名家であった北村家の四男として旧南有馬村の白木野に生まれた。

 幼少の頃から図工が好きで個性的で大胆な作品を作り、常に周囲を驚かしていた。京都市立美術学校(現在の京都市立芸術大学)、東京美術学校(現在の東京芸術大学)を首席で卒業後、建畠大夢・池田勇八らと彫刻の研究会「八手会」を結成し、彫刻の道を歩む。

 大正6年文展に出品した「光にうたれる悪魔」で知られるようになり、昭和13年は国会議事堂内に設置してある「板垣退助翁」像の制作、戦後になって長崎市からの依頼により製作した「平和祈念像」は、西望の代表作のひとつである。昭和51年には、宮中に「天馬」を献納するなど、数々の作品を制作した。

 昭和62年3月4日没。満102才(享年104才)。

 

西望の生涯

1884(明治17)年 12月16日、父・陳連(のぶつら)、母・サイの四男として、長崎県南高来郡南有馬村白木野字宮野木場に西望(にしも)生まれる。
1892(明治25)年 白木野尋常小学校に入学(四年制)。
1896(明治29)年 有馬尋常高等小学校に入学。
1900(明治33)年 有馬尋常高等小学校を卒業。12月小学校準教員免許取得。南有馬尋常小学校3ヶ月臨時勤務。
1901(明治34)年 4月、母校白木野小学校に勤務。代用及準訓導月給6円。
1902(明治35)年 正教員となるため教職を辞し、長崎師範学校に入学。風土病にかかり長期欠席し、師範学校を退学となる。このころ父の隠居所の欄間を彫る。年末から再び有馬尋常小学校の教壇に立つ。天満神社神主に京都美術学での勉強を進められる。
1903(明治36)年 京都市立美術工芸学校彫刻科入学(補欠)。彫刻とは木を彫ることぐらいしか頭にないまま彫刻家への志を立てる。入学後生涯の最愛の友であり、ライバルである建畠大夢と出会う。
1907(明治40)年 4月、同学校卒業・東京美術学校彫刻科入学(補欠)。
1912(明治45)年 同学校を首席で卒業。12月口之津で徴兵検査を受け甲種合格、久留米工兵第18大隊に入隊。
1914(大正3)年 2月、郷里にて、島原市の板倉春野(21歳)と結婚式を挙げ東京へ戻る。6月、非常召集令状により、妻春野を島原に帰し、久留米の工兵大隊に入隊。
1915(大正4)年 西望の長男「治禧」(はるよし)誕生。第9回文展に「怒涛」を出品、最高賞(二等賞)をうける。西望の父、裏山に紫色の雲がたなびいた。その後、裏山にその現象のことを刻み、その山を金雲山と名づける。
1916(大正5)年 第10回文展に「晩鐘」を出品、特選主席をうける。建畠大夢・池田勇八・国方林三ら4名で研究会「八手会」(やつで)を作る。滝野川上中里に移転した。
1917(大正6)年 「光にうたれる悪魔」が第11回文展推薦となる。文展常連出品者から文展作家となる。このころ、千々石村より橘中佐像の依頼をうける。
1918(大正7)年 第12回文展に筋肉質の動的な表現が多い作品傾向のうちで例外である「将軍の孫」も出展。
1919(大正8)年 第1回帝国美術院美術展覧会彫刻部審査員となる。以後歴任。
1920(大正9)年 森鴎外より寺内元帥騎馬像の制作を依頼される。
1921(大正10)年 東京美術学校教授に任命される。12月、「昿原社」という研究団体を発足させた。(運営1年余りで解散となる)千々石村に橘中佐像建てられる。(昭和29年復活建立)
1923(大正12)年 5月、寺内元帥騎馬像完成。東京の三宅坂に設置される。(昭和18年の銅像供出で撤去され鋳潰される)
1925(大正14)年 帝国美術院会員となる。
1927(昭和2)年 陸軍省から山県有朋元帥騎馬像の制作依頼をうける。
1930(昭和5)年 山県有朋元帥像が完成し、霞ヶ関の陸軍大臣官邸に置かれる。(戦時中の供出を逃れ上野に移され、現在は井の頭彫刻園に置いてある)
1931(昭和6)年 母校京都市立美術工芸学校で教壇にたつ。
1937(昭和12)年 秩父鉄道初代社長の柿原万蔵氏の銅像製作。
1938(昭和13)年 2月、「板垣退助翁」像完成・国会議事堂内に設置。児玉源太郎大将騎馬像完成し、満州の新京児玉公園に設置される。
1941(昭和16)年 宮内省からの依頼で閑院宮騎馬像のひな形ブロンズのみで完成できなかった。殿下西ヶ原のアトリエに来られた。その時、兄総族・姉ミホ上京する。
1944(昭和19)年 朝倉文夫とともに銅像救出委員会を組織。銅像供出の阻止運動を行う。東京美術学校を退職・従三位勲四等をうける。
1945(昭和20)年 3月、矢那瀬村に疎開(3年間)。この疎開中、必要に迫られ新しい技法石膏直付け法を思いつく。
1948(昭和23)年 長男・治禧(はるよし)、柿原万蔵の孫の娘と結婚。東京に引き上げる。
1950(昭和25)年 秋、長崎市から平和祈念像の建設の相談をうける。
1951(昭和26)年 祈念像の案を提出。長崎市より正式に依頼をうけ、着手する。
1953(昭和28)年 井の頭自然文化園の土地を東京都から借り、アトリエを建設、そのアトリエに移る。
1955(昭和30)年 長崎平和祈念像完成。8月8日除幕式。
1958(昭和33)年 文化勲章・文化功労賞拝受。
1962(昭和37)年 武蔵野市名誉市民となる。
1965(昭和40)年 日本芸術院第一部長となる。
1969(昭和44)年 社団法人日展会長となる。紺綬褒章を授与される。
1972(昭和47)年 島原城に「西望記念館」完成。島原市名誉市民。
1973(昭和48)年 原城本丸に「天草四郎像」設置。
1974(昭和49)年 社団法人日展名誉会長となる。
1976(昭和51)年 新宮殿に「天馬」を献納。
1979(昭和54)年 南有馬町名誉町民となる。西望公園完成・記念館オープン。
1980(昭和55)年 東京都名誉都民・長崎県名誉県民となる。
1981(昭和56)年 東京都北区名誉区民となる。
1983(昭和58)年 百寿を迎える。
1985(昭和60)年 西望公園・記念館復元工事完成。
1987(昭和62)年

3月4日、満102才(享年104才)にて永眠。

 

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